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無です

コンテンツを通して、自分の意見や感想、意思を主張して、自分はどのような人間かを見せつける。そういうことにしてあげなきゃいけないと察させる威圧。その主張はハリボテだし、へえそうなんですね以外答えようがない。だからわたしと話してもおもしろくないし疲れるんだろうな、ということをしてしまった。何度も何度も何度もしてきた。20歳くらいのときにそれを自覚して、意識的にそういうことをしないようにしている。でもだめだった。また無意識下で自分の存在を主張して他人を威圧している。言い訳がましいけれど、いつも無意識・無自覚だ。だから、気づいた時には手遅れで、自分の間違いを反芻して整理したところで、人の気持ちは戻らない。でも考えるしかない。

誰も訊いてない感想や自分は日頃なにを考えているのかを言いたがる癖が確実にある。それを言うこと自体もだが、それが他人に受け入れられたと感じたときが快感だ。自分の脳で考えてあるだけの知識と経験から紡いだ言葉や文章はわたしの存在そのもので、わたしにとって死ぬほど欲しくてたまらない承認だ。このブログも含めわたしの触れるインターネットのほとんどはそういう欲からくる発信が占めている。それだけではないけど。ネットで垂れ流すならまだ取捨選択ができるので、フォロワーのいないSNSも誰も訪れないホームページもそうそう迷惑にはならない。けれど、わたしはそれをリアルに持ち込んで、周りの人間に見せて回っていたような、学生時代だった。たぶん“厨二病”だったのだけど、実際そんなかわいい言葉でまとめられるような行為ではなかった。土台のないまま見てくれのいいものをとってつけて、それがわたしだと言い張った。想像するに憐れで滑稽で誰も指摘なんてできなかったと思うし、そんなことわざわざする必要が無い。人によっては不快感もあったと思う。いま思うと、無意識下で他人をコントロールようとしていたけれど、そんなことできるほど人の気持ちを想像も理解もできなかった。それ故に、他人が自分の気持ちをわかってくれなかったり、自分の思い通りにならないと不機嫌になっていた記憶がある。そうして過ごした長い学生時代、友達と呼べる人はみんななにも言わずに離れていった。とても深く信頼しあっていて仲がいいと思い込んでいた友達は嘘をついてまでわたしと距離をとった。20歳過ぎた頃には、人が離れていくことが不安になり、すべての人と二度と連絡が取れない形で自分から縁を切った。でも、そんなことしなくても縁なんてもう、なかったと思う。

他人との関係をほぼほぼ断ち切った頃、やっとひとりになることで、はじめて自分が存在していること、それと同時に他人が存在することも認識した。幼い頃はまた違ったけれど、中高生の頃はから他人は自分が存在するためにいるもの=他人がいないと存在できないと思い込んでいた。だから他人の中にわたしがわたしと思っているわたしがいてくれないと困るのだ。

薬で眠くてつづきがかけない、あしたの昼間、続きを書きます。

 

犯罪者の手記のようだ。いや、読んだことはないけれど。こんな独白、誰も訊いちゃいないのに。

 

 

追記

なにを書きたくて書き始めたのかまったく掴めなくなってしまったので、続かないです。ただ、自分が存在していることを主張したいだけの、訊かれてもない自分のことを書き連ねただけになった。

いまは自分で責任をとることですべてを選択している。はずなに。それでも、脳に振り回されて選びたくもないものを選んで行きたくない方に進んでいく。人間との関わりの中で自分をコントロールできない。それは病気。そのことを他人に認められたいわけではない。ただの事実だから。病気だからなにかして欲しいでもない。自分でなんとかする。でも人とは繋がりたい欲求がある。人間だから。そこの折り合いがまだつかないまま、また人と関わり合って迷惑をかけたり苦しめたりする。その繰り返し。わたしはその度まともに傷ついて、正気ではいられないほど苦しんできたし、この先もそうだと思う。でも自分で選んだことだ。ひとりになって自分で責任を取ると決めた日から、わたしは間違いなく自分で選んで進んできた結果今日にいる。その中で選ばされてしまったことは何度もあるけれど、そのまま自分を手放しはしなかった。自分で感じることを選んできた。だから絶対傷つきたい。わたしはまともに傷つきたい。それで死んだっていい。それくらい感情のやり取りをしている。うまくいかなくて、暴れたり叫んだりするみたいになる。でもそれくらい本気だ。いなくなってもいい人なんていないよ。わたしは一生ひとりぼっちかもしれないけど、誰かにとって、なんだろう、すれ違うその一瞬でも、その孤独に寄り添えたら、と思う。